土居 由理子 / YURIKO DOI

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アメリカにおける狂言の発展 (English Kyogen development in US)


1)
演技のディサプリンの欠如、スタニスラフスキ・システムに代わるものの探求。

2) 長いシェークスピアのバックグラウンドがありながら、演技のディサプリンがない。1960年代のUCバークレー校、サンフランシスコ州立大学での演劇科では、ポーランドのワルシャワの演技方法(?)と丁度私が渡航し、留学生活の始まった(1967年)カリフォルニア大学バークレー校演劇科に客員教授として教鞭を取っていたポーランド劇評家のヤン コット(Jan Kott)の方法を、実験的な演技の過程で教えていた。

3) 幼少の頃より、宝生流の大叔母土居由季に能楽堂に連れていかれて、自然のうちに能・狂言の世界の中に浸っていた私は、この世界の演技のディサプリンを肌で感じて育った。土居由季は高橋進の弟子で、当時は後藤得三?、近藤乾三?など人間国宝のそろった宝生流の最盛期であった。

4) そこで、私の最初の演出のクラスで、英語能「紅葉狩り」をクラスメートを使って演出することにした。幸い、松竹が、サンフランシスコ日本人街に歌舞伎上演用のセリのついた舞台を備えた歌舞伎レストランを開場するにあたって、大々的なオープニングのために、歌舞伎役者河原崎権十郎と新派の阿部洋子、そして大阪松竹舞踊団が来桑していた。幸いそのグループの舞台監督が私の早稲田大学時代演劇科の先輩中川寿男で、彼は、歌舞伎衣装とはいえ、その舞台のための衣装を公演の時に貸してくれ、その上玄人の着付けの方が応援に駆けつけてくれた。これは中川さんの人柄ゆえのことである。もちろんこの公演は圧倒的な人気で、その後、私の修士のための演出公演アントナン アルトー作、グラント オーソンと土居由理子翻案「チェンチ家」(The Cenci)のオーデイションでは、最高のキャストを確保することができた。

5) 早稲田小劇場の鈴木忠の鈴木メソッドがアメリカで、当時流行した理由は、大いにうなずけた。但し、鈴木メソッドは、主に歌舞伎や能の型を集合したもので、そこには、その型の意味を踏まえる余裕は含まれていないので、単なるロボット的な動きの羅列になりがちであった。そこで、私が、劇団Theatre of Yugenを創立(1978年)した折には、心の訓練も踏まえた能と狂言の動きの訓練を基本に、これを演技のディサプリンとして使う道を選んだ。

6) 1980年7月、私が我が家を抵当にして、野村万蔵3周忌の公演をサンフランシスコのハーブスト・シアターで二日にわたり催した際、初めてシアター・オブ・ユウゲン劇団員は、野村狂言を目のあたりに見ることになった。当時の劇団員、ヘレン モーゲンラス、マーサ エストレーヤ、パット大山は、強い刺激を受け、狂言のとりこになったが、中国人のセシール パングは、自分の演技では到底到達できない演劇の世界だから、辞めると、退団した。

7) トレーニングの初期の方法:

8) トレーニングの方法:いかに短期の訓練で、観客の前で演技ができるレベルにもっていくか。いかにわかりやすく、また身近な芸能として、研ぎ澄まされた狂言ではなく、狂言の初期の感覚に戻って、どちらかといえば、泥臭いアメリカの土壌の匂いのする狂言を作っていく方法を取った。もちろん英語で公演をするという段階で、ある程度日本の狂言とは距離を置いて、我々独自の英語狂言を打ち立て、アメリカの観客との疎通をある程度重視した。この日本で学んだ狂言をある程度アメリカの観客に(特にアメリカの劇評家に)理解させていくかの作業は
並大抵のものではなかった。例えば、動きのスピード。序破急の問題。
 (1)声のトレーニング。腹式呼吸を使っての発声練習。母音のあいうえおをはっきりと大きく腹を使って発声する。又その時体の動きを使い、どのデイレクションに発声し、気持ちを伝えるか、体の動きと声の訓練。 ダンサー出身でも1年たてば、かなり大きな声で、セリフがしゃべれるようになった。
 (2)顔の表現の問題。マスク/面を使って体で表現する方法。「体で笑って、体で泣く」という万作先生の表現を体に覚えさせる方法。但し、顔の表現を余りにも無理に制約すると、アメリカの役者の場合は、 体の表現も固くなって、表現が自由にならない。そこで、適度に顔を無にもっていってもよい、ということになった。
 (3)新体道というマーシャル・アートの体と声を使って、あ、え、い、お、うんと声を出しながら動きを伴って表現するテクニックをトレーニングのはじめに取り入れ、また万作先生が,マーサグレハムモダンダンス グループの基本訓練を見て刺激されて、我々のために創作した、狂言の型をメドレーにしたウォームアップを実践。
 (4)自己の習慣の中で、自然に気持ちを表現できる動作を、スタイル化して表現
する方法を導入。これはアメリカの観客との即座の息疎通に効果的。例えば、ほっとした時に、右手で冷や汗をかいたのをふくように、右手で、額をふく真似をして、その手を大げさに、汗を振り捨てるように下に落とすジェスチャー。「柿山伏」の盗人のしぐさに採用。
 (5)初期のオリエンタル・マイム・ツループといった頃は、当時はやっていたサンフランシスコのパントマイムやマルセルマルソーの白い化粧顔のように、白い化粧を取り入れたが、1980年にやめて、素顔にした。
 (6)演技の抑制。これは難しい。大幅に100%以上で表現しようとするアメリカ人の役者に、抑制して演技し、大事なところで、リリースするという演技は、もちろん優秀な役者には、分りやすいことだが、普通は難しい。それをどう教えるか。
 (7)英語のセリフの狂言的抑揚の問題。能「無明の井」の作者多田富雄先生は、私の演出した英語版「無明の井」の公演の折、能に先駆けた英語狂言「柿山伏」を見て、セリフの狂言的抑揚がとてもうまくできているのに、能の場合は、もう一つ工夫すべき余地があると批判された。ダンケニーの英語狂言の場合との比較。
英語の意味と流れを基本として強弱をつける。この場合、日本語での台詞回しとは、当然無関係。


9) 狂言の訓練は、あくまでも、演技のディサプリンのためのもので、劇団の芸術監督としての私は、幅拾い世界的な視野での作品を公演することを基本とした。そのため、狂言の公演と並行して、ギリシャ悲劇「メディア」、「アンティゴネー」、W.イェーツ「パーガトリー」(煉獄)、S.ベケット「ゴドーを待ちながら」などを通して、その演技のディサプリンがどのように反映して、役者の演技につながっていくのか、私にとっての大きなチャレンジだった。結果としては、まだトレーニングの時間の短さだった。それでも、アメリカのの役者のオーデイションをして次から次へと劇団を移っていく世界で、ユウゲンの役者は、長い間、私の下で訓練を積んでいった。ヘレン、エレン,ユイース、ジュベリス、リズなど10年以上劇団員として訓練を受け、ブレンダなど7年間以上訓練を受けて今では、独立して、アメリカ各地で活躍している役者の姿を見るのは、嬉しいことだ。

10)サンフランシスコ主要紙,サンフランシスコ クロニカル紙の劇評家との闘争。
序破急とアメリカの時間に合わせろという主張。とにかく観客を3分間の間に帰らせないようにするためのアメリカの通常の演出家のスピードアップした方法は、芸術的疑問があるし、間と沈黙の意味を知る芸術家には、この劇評家の批評は無用だ。TY 25years page. 13参照。

11)劇評:
オレゴン州の劇評:“San Francisco’s tiny but powerfully talented Theatre of Yugen to applying a fascinating mixture of Noh, Kyogen, Butoh – to “A Christmas Carol” and the result is surprisingly true reading of the over performed, commercially manipulated and abused classic.” By Janos Gereben, Marin Independent Journal, December 16, 1991

12)野村万作「太郎冠者に生きる」引用。
狂言の形式を生かしなして自由に演じようとするシアターオブ・ユウゲンの  英語狂言(160ページ)
シアター・オブ・ユウゲンの作品は、古典の演出にとらわれずに自由な発想で演じている。例えば、「花子」のような大曲も、普通の狂言として演出しているのを観た。。。。このようにアメリカにいる日本人の考えと、日本にいるアメリカ人の考えが違うのが面白い。私は、身近に両者を指導しているので、その双方の野主張がよく理解できるのである。(164ページ)

13) 1985712から31日にまでの初めての日本ツアー
野村万作先生による岩手県平泉、中尊寺での日米合同狂言の合宿。シアター・オブ・ユウゲンからは、私を入れて6人の参加者があった。
地元をはじめ各地の日本の新聞に掲載され、報道写真は、若くて、日本、中国、ドイツの混血の魅力的なブレンダウォンぐ・青木が主に掲載された。そのせいか、帰米後ブレンダは、万作先生とのコネクションと写真をもとに、私がそれまで7年間教えたことには一言も触れずに、独立した。何人かのシアター・オブ・ユウゲンの中の一人の役者としてシアター・オブ・ユウゲンの主催した野村万作先生と同じ舞台で共演したにもかかわらず、あたかも野村万作先生と一人でアメリカ人で初めて共演した、といった劇団の名前も私の名前も全く無視した売り込み方には、さすが、私といえども唖然とした。しかし、このアメリカ式の売り込み方は、功を奏して、ブレンダは、伴侶のミュージシャン、ベース奏者とのコンビで、一人芝居として、その後全米的ツアーに成功した。
筑波科学博のExpoホールでの公演の他、平泉の中学校、名古屋熱田神社 野外能楽堂で公演した。また土居は、東海テレビのインタビューに出演。

14)Yuriko Doi に関する記事。
抜粋:Annette Lust From the Greek Mimes to Marcel Marceau and Beyond 
Forward by Marcel Marceau
Published by The Scarecrow Press, Inc. Lanham, Maryland, and London 2000 ISBN 0-8108-3510-X
Woman’s voices in Mime Page 255

Tokyo-born Yuriko Doi, founder and artistic director of San Francisco’s Theatre of Yugen, has trained, directed, and performed in stylized Kyogen and Noh theatre.
Although male performances traditionally play Kyogen theatre. Doi has used females for man’s roles in her Kyogen production. She also has chosen a number of plays that depicts the liberation of women, such as Carol Sorgenfrei’ Noh –style adaptation of Medea(1983), depicting Medea’s own female choices. Aside from directing traditional Noh and Kyogen works, Doi directed and performed in modern works, such as Shogo Ohta’s Komachi Fuden(1986), which relates the story of silent, old Komako, who lives in modern-day Tokyo and dreams she is a legendary medieval poetess. Doi also has staged classical Western plays, such as Moliere’s Tartuffe as The Imposter (1992), which incorporates Kyogen and commedia dell’arte to depict current Japanese American relations. As a Japanese female, Doi has renewed classical Japanese, European, and American theatre by breaking through traditional barriers to find parallels between Eastern and Western theatre and by integrating Japanese, European, and American acting style.


  以上